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初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その1~

江戸末期から明治期にかけて、関西財界で重要な役割を果たした百足屋又右衛門家(百又)の祖 初代・芝川又右衛門。又右衛門は1851(嘉永4)年に芝川家に婿養子として迎えられたのですが、今回は芝川家に入家する以前の又右衛門の足跡についてご紹介しましょう。

初代・又右衛門は、1823(文政6)年に中川重次郎と千代の次男として、京都富小路丸太町に誕生し、幼名を利三郎と言いました。子供の頃より画家・近藤有芳*)について儒学と岸派の絵画を学び、また15歳の頃より塗師である父・重次郎について蒔絵の技術も習得します。

そんな利三郎に転機が訪れたのは、1840(天保11)年、蒔絵を生業として二条御幸町に独立し、名を又右衛門と改めた後のことでした。

この頃 又右衛門は、京都双林寺の近くに住んでいた知人の銅版絵師・神楽万平に誘われて、銅版による陶器染付けを始めます。京都五条坂窯で焼き上げた初めての作品「新渡写赤壁絵煎茶碗」は、おそらく日本初の銅版染付陶器で、これを「近新」という道具商に見せたところ、原価3匁(もんめ)ほどの茶碗1個を8匁で引き受けましょうとの交渉がまとまります。又右衛門はさっそく30個ほどを製作し、その全てを売り渡しました。

京都での文人趣味の煎茶が大流行していたという世情も手伝って、神楽万平と又右衛門の銅版染付の試みは大成功を収めます。しかし、これを実際に事業化するとなれば、独立窯を確保するために莫大な資金が必要でした。万平、又右衛門の若い二人には、とても支払うことのできない額の資金です。

そこで、又右衛門はまず、蒔絵業の得意先としてかねてより目をかけられていた京都の呉服商・吉田茂左衛門(桝屋)に相談し、その投資を懇請します。又右衛門の熱心な説得の結果、茂左衛門の事業への賛同が得られ、事業が成功した暁には利益を分配するという組合的な形態での投資の約束をとりつけることができました。

次に窯を築く場所の選定において、又右衛門は、かねてより面識のあった一條家代官・伊地知豊前介を通じて、良質の陶土を産出する一條家領地・鹿背山(京都府相楽郡木津町)への築窯を依頼します。

しかし、時は老中・水野忠邦による天保の改革の真只中。奢侈の禁止が推し進められ、陶芸界も衰微、その前途が危ぶまれていた世情。一條家から待望の築窯許可が出たのは、1845(弘化2)年、水野が罷免となり、改革の執行者・鳥居耀蔵が処断された後のことでした。

こうして、又右衛門の奔走により、場所、資金が共に整います。1845年、鹿背山の地には三個の窯が築かれ、ここに鹿背山焼の製造がスタートするのです。

*)近藤有芳
名を定安または秀、字は伯仁、士行、士馨、号は千里館、主号を有芳とする。絵画は同功館岸岱に学び、近藤雅楽とも号した。和歌・儒学・書道などの諸芸にもたけていた。

■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)

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