又右衛門の奔走で、なんとか開窯した鹿背山焼でしたが、その後も決して順調に発展した訳ではありませんでした。
当初、又右衛門は鹿背山の窯をさる陶工に任せていましたが、なかなか思うような製品はできませんでした。又右衛門は出資者の吉田茂左衛門の希望もあり、責任上、本業の蒔絵業を一時放棄して、現地へ赴かざるを得なくなります。こうして、又右衛門自らによる本格的な窯元経営が始まりました。
鹿背山に移住した又右衛門はまず、従来の陶工を解雇し、近江国彦根の陶工・佐吉に相談して、その善後策を練ります。窯の欠点を見抜いた佐吉は、膝元から陶工・小川文助を斡旋してくれます。文助は諸国の陶業地を巡歴して製陶法を修行し、特に陶窯築造の術に精通していました。
こうして鹿背山焼の製造は何とか軌道に乗り、職頭格の小川文助、細工人として伊万里陶工の清平ほか4名、彫物師の丹禮、かつての又右衛門の師でもあり、書を担当した近藤有芳、画家の酒井梅斎、銅版絵師の神楽万平、画工は絵師の傳吉ら6名、出納は出資者である吉田茂左衛門(枡屋)の手代・善八が勤め、下働きを含め、常時20余名ほどで運営が進められることになります。
青年又右衛門は、この分業体制を巧みに統御し、一月半毎に一度窯開きを行って、製造商品数をぐんぐん増やしていきました。
雲洞製銅版染付丸紋小皿(「一條家領鹿背山焼」p.27より)
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さて最後に、長年鹿背山焼の研究に携わってこられた春田明氏の著書「一條家領鹿背山焼」から、作品につけられた銘をめぐる大変興味深い記載をご紹介して、本節の締めといたしましょう。
「(鹿背山焼陶器の)高台裏に銘した「専製有権」の文句は、たぶん今日の専売特許を意味したものであろうか。はなはだ興味ぶかい事実である。そもそも専売特許は慶応三年に福沢諭吉が発明特許制度を提唱してから、最初の発明保護法が登場するのは明治四年の「専売略規則」であった。しかしこれは暫定的で一年後廃止され、ようやく近代的な「専売特許條例」が公布されるのは明治十八年まで待たねばならなかった。ところが江戸時代はいうまでもなく発明無保護の状態で、それどころか「新規法度」の世の中であった発明者が他人の模倣に対抗してとるべき唯一の自衛策は、発明を秘匿する以外に方法はなかった。そのような時代に雲洞利三郎(又右衛門。雲洞は又右衛門の号)が明示した「専製有権」は、わが国における発明思想の萌芽をかいま見る思いである。」(春田明著「一條家領鹿背山焼」p.115より) ※( )内、ブログ筆者注
「専製有権」の文字が見られる銅版染付人物鳥獣文鉢
(「一條家領鹿背山焼」p.26より)
■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)
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