鹿背山焼の製造が軌道に乗るにつけ、次なる課題は製品の販路を開くことでした。又右衛門は淀川を通して製品を大坂へ運び、船場伏見町の唐物商に販路を求めます。
又右衛門は見本品を携えて今橋心斎橋筋の旅宿 紫雲楼*1)に投宿して製品の売り込みを始めますが、何の伝手もない土地での売り込みはなかなか上手くいきませんでした。しかし、そんな二人の様子を察した紫雲楼の主人・平川善右衛門が、寺の同行であった大阪伏見町の唐物商・百足屋芝川新助を紹介してくれます。こうして芝川家と又右衛門のつき合いが始まります。又右衛門は百足屋から徐々に信頼を得、更に大きな唐物商・加賀屋仙助、小西平兵衛らに引き合わされて取引を広げていきました。
こうして大坂での販路獲得に成功した又右衛門は、続いて奈良、京都にも販路を広げていきます。京の五条坂で銅版染付の試作品を作成した日から10年もの月日が過ぎていました。
そんなある日、28歳の又右衛門に人生の大きな転機が訪れます。これまでのつき合いの中で又右衛門の人物を見込んだ百足屋芝川新助から、紫雲楼の主人・平川善右衛門を介して、又右衛門を長女・きぬの婿養子にと懇請されたのです。
鹿背山焼の製陶事業発展の只中にあった又右衛門は悩みますが、芝川家に入婿し、唐物商として生きる決意を固めます。こうして、窯元は出資者の吉田茂左衛門に返還されることになりましたが、1856(安政3)年頃まで、又右衛門は兼業という形で鹿背山の経営に関与していたようです。
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ところで、鹿背山製の陶器の販路先として、又右衛門はなぜ、伏見町の唐物商(貿易商)に目をつけたのでしょう。国産の陶器を販売するのに、なぜ道具商や陶器商に売り込みを行わなかったのでしょうか。
唐物商を取引先に選んだことについて又右衛門は、「当時、唐小間物商が独占的に輸入を行っていた清国の製品と対峙させようと銅版染付の陶器を創意した」と回想しています。事実、又右衛門の手による鹿背山焼には新渡写し*2)が多かったようです。当時、日本は鎖国していましたが、長崎貿易や密貿易を通して輸入された舶来の製品が珍重されていました。しかし、こういった貿易によっておびただしい金銀が海外に流出しており、又右衛門はそのような状況に発憤し、金銀流出に歯止めをかけようとしたとも言われています。
唐物商たちから「舶来品に比べても遜色がない品質」との好評を得ていたという鹿背山焼。その製作の礎には、単に新しい技術で陶器を作るというだけではない、広く国家の利益を見据えた厚い志を感じることができます。又右衛門が持ち続けた広い視点が、蒔絵師の中川利三郎を唐物商・芝川家に結びつけ、その発展に貢献することを可能にしたと言えるでしょう。
*1)紫雲楼
心斎橋筋北浜南入に海船問屋兼旅館を営んでいた米善の支店。明治維新の際には、大阪会議を開いた花外楼に対して、民権運動の主流・愛国社の大会を開き、自由党の板垣退助、片岡健吉、植木枝盛らが会合した所として知られる。
*2)新渡写し
外国からの新しい渡来品を模したもの
■参考資料
「一條家領鹿背山焼」、春田明、山城ライオンズクラブ、1993
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)
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