徳川幕府においては株仲間制度があり、大阪でも唐物商のうち反物を取り扱う五軒問屋が権勢を振るっていました。五軒問屋以外の商売においては、売上高1貫匁あたり30匁(1貫匁=1,000匁なので3パーセント)が口銭(取引の手数料や仲介料)として徴収され、商売の利益が殺がれていたのです。
このような中で又右衛門が目をつけたのが堺の地でした。当時、堺は堺奉行によって管轄されており、大坂町奉行の管轄下にあった五軒問屋の勢力が届かなかったのです。
又右衛門は当時休業中だった堺の唐物商・奥田屋定次郎を名義人として、本町の反物問屋・佐渡屋伝兵衛を説き、佐渡屋と共に堺・神明町に唐物問屋を開業します。
又右衛門が佐渡屋伝兵衛に声をかけたのは、佐渡屋が九州地方でも手広く商売を展開していたからです。又右衛門は伝手のない長崎の地で商売を行うにあたり、商品購入の代金を迅速に支払うことが長崎商人から信頼を得るのに重要だと考えました。しかしながら、自分自身の資本は不十分であり、また現在のように銀行もない時代です。又右衛門は佐渡屋の九州での売掛金を長崎における商品購入の代金に当てようと考えたのです。
又右衛門の思惑通り、実際に営業が始まるとその堅実な取引振りは長崎商人の信用を得て、取引は日を追って繁盛していきました。また、後には淡路船の利用で資金の調達に困ることもなくなり、取引額も俄かに増大していきました。(当時、淡路船は単に品物を運搬するだけではなく、船主が荷為替を組んで遠隔地間の決済を請け負っていました。)こうして又右衛門は直接長崎と取引の途を開き、外国品取引業に着手したのです。
また、1864(元治元)年には、又右衛門は江戸への更なる事業拡大を目指して堀越覚次郎という商人との取引を始めています。江戸時代、外国からの輸入品は厳重に取り締まられており、その取引は不自由を極めましたが、その分、輸入品売買による利益は大きかったといいます。百足屋の資力も長崎貿易開始後に著しく充実していきました。
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送り状に見られる長崎貿易取引商品を列挙したもの
「芝蘭遺芳」には、これら貿易取引に関する荷為替証文や送り状、御達状、輸入品目、運賃表などの一部史料が掲載されていますが、これら取引における当時の往復書簡を通読すると、商況の様子はもとより、社会の出来事まで懇切丁寧に記された事務用とは思えない行届いた内容であったと言います。現代ほど情報を簡単に手に入れることができなかった時代、こういったやり取りは、お互いの信頼関係を築くためにも、また商機を捉えるためにも重要な情報源だったのでしょう。
■参考文献
「大阪商人太平記 ―明治維新篇― 」、宮本又次、創元社、昭和35年
「船場 風土記大阪」、宮本又次、ミネルヴァ書房、昭和36年(第3刷)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、1944、芝川又四郎(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
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