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初代・芝川又右衛門 ~渋沢栄一の思い出~

幕末、大坂のまちも騒然となります。特に、外国商品を扱う唐物商は攘夷派から狙われ、打ち壊しなども多発しました。又右衛門も一時家族を引き連れて北摂熊野田村(現・豊中市)に避難したこともあったと言います。

今回はそんな動乱の幕末期、後に日本を代表する実業家となった渋沢栄一が、一橋家の顧問を務めていた頃のお話です。

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渋沢栄一

混乱の幕末期、輸入品を扱う唐物商にとって様々なリスクもありましたが、外国品、特に軍需品の需要が高まったのもまた事実でした。

一橋家の顧問・渋沢栄一も、大阪の又右衛門の店・百足屋から軍需品である硝石(火薬の原料)十万斤を購入することとなります。一橋家と言えば幕府の御三卿のひとつで二人の将軍(11代家斉と15代慶喜)を出した名家中の名家。そんなところにまで取引先が及ぶほどの当時の又右衛門の商売繁栄ぶりは推して知るべしです。

さて、又右衛門が西国橋西手にある藩邸を訪れたところ、渋沢は襠袴の凛々しい扮装で応対し、手ずから硝石を量りました。しかし、渋沢が量った結果と送り状に記載された量とがどうしても一致しません。

結局、道修町薬種屋より計量の専門家に来てもらい、量目の正確さを争うことになります。

その結果、どうやら渋沢が量りかたを巧みにごまかしていたらしいのですが、「渋沢栄一もなかなか細かな芸ができたわけだが、一橋家の顧問を相手にそこまで争った又平(又右衛門の隠居後の名)も相当なもの」とあるように、又右衛門の肝の据わり方には舌を巻きます。(「日本を創った戦略集団」p.250より、( )内筆者注)

なお、無事取引が終わった硝石は平野橋西の鴻池倉庫に納められ、当時有名な侠客・新門辰五郎*)が子分と共に江戸から出張し、その警戒に当たったとか。

後に明治の世となり、渋沢栄一が正金銀行の株主を募集するために来阪した際、渋沢と再会した又右衛門がこの時の話を持ち出したところ、二人で当時のことを思い出して大いに笑ったと言います。

*)新門辰五郎(1800-1875)
江戸末期の町火消しで侠客。1846年の江戸大火の際に男をあげ、将軍徳川慶喜の警衛役にまでなった。

■参考資料
「日本を創った戦略集団⑥ 建業の勇気と商略」、堺屋太一責任編集、集英社、1988
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)

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