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初代・芝川又右衛門 ~兵庫開港と神戸洋銀引替所~

徳川慶喜が政権を朝廷に返上し、江戸幕府政治に幕を下ろした大政奉還。その約2ヵ月後の慶応3年12月7日(1868.01.01)、兵庫が日米修好通商条約の条約港として開港しました。開港2日後の12月9日(1968.01.03)には王政復古の大号令が出されるという大きな転換期只中の出来事です。この開港により兵庫(神戸)は近代的な国際港として歩みはじめました。

大阪で唐物商(貿易商)を営んでいた初代・芝川又右衛門は、当時45歳の働き盛り。身近な兵庫の開港という新時代に即し、これまで手掛けてきた長崎と江戸での取引を兵庫(神戸)に集中させ、オランダ商ポートイン(ボードウィンか)、ドイツ キニーフル、オランダ八番館、アメリカ一番館などとの取引を開始します。

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さて、明けて慶応4年(明治元年)の新年早々に又右衛門は外国事務総督・伊達宗城(だてむねなり)より大阪西本願寺別院(現在の本願寺津村別院・北御堂)に呼び出しを受け、弗銀引換方を担任すべき旨を告げられます。弗銀引換方とは、日本の通貨と外国の通貨(洋銀*)の両替を行う機関のこと。洋銀は輸入品の支払いに利用されていたことから、開港に伴う外国との貿易開始にあたってその設置が急務となっていたのです。

命令を聞いた又右衛門は、早速金子三万両を携えて神戸に出張して仮洋銀引替所を設置、同年3月より引換業務に着手しました。ここで交換された弗銀(洋銀)は順次大阪に廻送され、日本の通貨である一分銀に改鋳されたと言います。

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最後に、当時の貨幣をめぐる時代背景について少し補足しておきましょう。江戸時代、日本では金・銀・銭の3種の貨幣が併用され、江戸では金が、大阪では銀がそれぞれ用いられていました。金・銀・銭それぞれの間には相場が立ち、両替商において交換することができました。両替商の中には天下の豪商としてその名を轟かせていたものも多くありました。

しかし、幕府をはじめ、明治新政府にも莫大なお金を貸していた両替商は、その多くが幕末から明治にかけて経済的に逼迫していきます。更に、金本位の貨幣制度への集約を目指して慶応4年(明治元年)5月に銀目廃止が決定。銀が中心に用いられてきた大阪では、銀が無価値になることを恐れた人々による取りつけ騒ぎが多発、数多くの両替商が閉店を余儀なくされ、没落してしまいました。

この時代、又右衛門は以前にも増して目覚ましい活躍を見せるようになりますが、まさに時代の転換点を的確に捉え、台頭していったのだと言うことができるでしょう。

*)洋銀
アメリカ弗(ドル)、スペイン銀貨、メキシコ銀貨などの輸入された外国通貨のことで、日本をはじめ、東洋諸国の貿易の決済に利用されていた。

■参考資料
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
外務省ホームページ

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