慶応3年12月7日(1868.01.01)、神戸の開港と同じ日に大阪が「開市」されます。開市とは、開港が外国人の居留を認めるのに対し、居留は認めず、取引のみが認められること。但し、大阪も後に開港へと方針を転換し、慶応4(明治元)年7月15日には正式に「開港」しています。
さて、開港に先立つ慶応4年(明治元年)3月、芝川又右衛門は布屋猶三郎と共に政府関係機関より召還され、外国人との貿易取引において身分が確実な商人を人選の上、報告するようにとのお達しを受けました。
当時、300年近く続いた日本の鎖国が瓦解し、外国貿易をめぐる情勢が大きく変化する中で旧来の唐物商仲間は最早時代に即さなくなっていました。素人が法度や規則も弁えずに貿易取引に乗り出して多大な損益を出したり、外国人に大損をさせた挙句にトンズラしてしまったり・・・といった事態も発生したようで、それらの取り締まりが急務となっていたのです。
又右衛門は早速28名の「本組(元組)本商人」からなる唐物商組合を組織し、取引を願い出た商人をその支配下に組み込んで、組織的な取り締まりを図ります。
本商人一同で相談の上、輸入品からは五厘、輸出品からは七厘を徴収し*1)、残り二厘を組合の運営費に充てたと言います。組合には貿易品の目利き(鑑定)役など4名*2)が順番を決めて事務にあたったとありますから、現在でいう出向のような勤務形態だったのでしょう。
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さて、当時の貿易を垣間見る史料として、「芝蘭遺芳」に掲載された慶応4年の外国商館への輸出品のリストには、茶、乾物、生糸、薬種、綿、漆器・・・などの品々と共に、傘、提灯、雛人形(?!早くも美術品として売買されたのでしょうか)、花古蓙(?“ござ”の一種?)、饂飩粉(やはりおうどんにして食べられたのでしょうか)・・・などなど、ちょっと予想外の品物も記載されています。こういった史料は、当時の様子を知る上で本当に貴重なものだと言うことができるでしょう。
*1)「芝蘭遺芳」の記述による。「瑞芝録」では、輸入品から7厘を徴収したとの記述になっている。
*2)「瑞芝録」による。「芝蘭遺芳」では、小使を含めた5人が詰めて事務を執ったとしている。
■参考資料
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
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