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初代・芝川又右衛門 ~通商司開設・通商会社と為替会社~

商業振興や政府のための収税の目的で明治元年に設置された商法司が、その翌年に廃止される1月前、商法司の機能に外国貿易の任務を加えた通商司が各開港場*)に設置されます。

明治2年2月に設立された通商司は、その下に通商会社・為替会社の二社を設置し、前者は商業振興や国内諸商品売買の仲介・外国貿易を統括し、後者では預金・紙幣発行・資金貸出・為替・洋銀・両替などの金融業務を行いました。

既に外国貿易において様々に活躍していた初代・芝川又右衛門も為替会社の御貸付方を命じられ、苗字帯刀御免の仰せ渡しを受けます。

神戸開港文書*2)には、通商司により発行された「苗字帯刀差免につき」という文書が残っており、佐渡屋伝兵衛、高田屋正右衛門、大黒屋六之助と共に百足屋又右衛門の名が記されています。この文書には「9月25日」という日付のみで年代の記述がないのですが、この文書が又右衛門の苗字帯刀を許可した際のものとすれば明治2年頃のものでしょうか。

為替会社において、又右衛門は明治2年9月の為替会社による紙幣・総額60万両の発行に関与し、通商司の建物の表構写真を印刷した紙幣に捺印したと後に又右衛門は回想しています。為替会社によって発行された紙幣を為替会社紙幣と言いますが、全国8ヶ所に設置された為替会社の中では、この明治2年9月に大阪為替会社から発行されたものが最初の為替会社紙幣だったそうです。

それにしても日本銀行だけが紙幣発行を行う現在とは異なり、当時は様々な所が様々な紙幣を発行していたようで、非常にややこしかったのではないでしょうか。


大阪為替会社により発行された為替会社紙幣(左:裏、右:表)
表下部に大阪通商司の玄関写真がはりつけられたので「写真札」とも呼ばれた。
(「大阪商人太平記 明治維新篇」p.33より)

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通商司は明治4年7月に解散され、全国に設置された為替会社も貸付金回収の滞りなどからそのほとんどが明治5年には解散することとなります。しかし、加入に制限がなく、それぞれが差し出した身元金に対し、月一歩(1%)の利息と利益配当が受けられ、株券譲渡も自由であった通商会社・為替会社は、不十分ながらも「株式会社形態」の先駆であり、殊に為替会社は後の民間銀行設立に向けて大きな役割を果たしました。

現在は当たり前の「銀行」や「株式会社」といった新しい社会の仕組みが、この頃まさに整いつつあったのです。

*)為替会社は東京、京都、横浜、大津、大阪、新潟、神戸、敦賀の8ヶ所に設置されました。

*2)神戸開港文書
神戸大学附属図書館が所蔵する伊藤博文の神戸港に関する文書を始め、神戸港開港当時に港近くの庄屋が持っていた資料などを含む神戸港開港関係の資料コレクション。

■参考資料
「経済史上の明治維新」、宮本又次、大八洲出版、1947
「大阪商人太平記 明治維新篇」、宮本又次、創元社、1961
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)

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