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芝川又三郎 ~写真、釣り、そして狩猟~

「紫草遺稿」に収められた芝川又三郎の日記からは、様々なことに打ち込み、充実した毎日を過ごす又三郎の姿を読み取ることができます。中でも又三郎は旅行・写真・釣り・狩猟が好きだったようで、それらに筆の多くを割いています。

最初に登場するのは写真。又三郎が写真を始めたのは明治26(1893)年、15歳の中学校在学中のことです。7月4日の日記に「昨日写真器械到着せり、本日より暗室に取掛れり」と記されており、8月に入って幾枚か試し撮りをした後、8月10日から写真術を学ぶため、葛城思風*)のもとへ通いました。

そもそも、なぜ又三郎が写真に関心を持ったのかについて明確な記述はありませんが、明治29(1896)年1月発行の雑誌『六稜』第一号に投書した「写真術に就て」という文章には、「自分の好きなことなので、我田引水と思われるかも知れないが」と断った上で、写真の利点として「理化学的なる事」、「体育を助くる事」、「危険ならざる事」、「美術心を起こす事」、「歴史上必要なる事」などを挙げています。

逆に欠点として挙げられているのは、「時間を多く要する事」、「金銭を多く要する事」の二点。確かに当時は写真がまだまだ珍しい時代、機材も相当高価なものであったに違いなく、子弟が趣味として写真を嗜めることは、芝川家の素封家ぶりを垣間見るひとつのエピソードを言えるでしょう。


又三郎撮影:弟・又四郎(千島土地株式会社所蔵 P12_038)


又三郎撮影:須磨(千島土地株式会社所蔵 P12_008)


又三郎撮影:大阪住吉別邸の門(千島土地株式会社所蔵 P25_001)

写真と同じ頃、又三郎は釣りにも夢中だったようです。明治27年8月12日の日記は「世の中に、面白き者を問はば、釣も其一なる可し」と始まり、芝川家の別邸があった須磨において釣りに出かけ、お昼までに96匹もの魚を釣ったと記されています。

後年、又三郎は後述のように狩猟を始めますが、猟期外には釣りを楽しんだようです。

日記に狩猟に関する記事が登場するのは明治32(1899)年~33(1900)年にかけての、熊本の第五高等学校在学中の冬休みのこと。本格的に打ち込むようになったのは、京都帝国大学に入学し、狩猟地であった須磨に通いやすくなってからのようで、明治33(1900)年の猟期が始まると、毎日銃を肩に山に赴き、小鳥の獲物を得たと書かれています。 

少し大きめの獲物を捕ることは一人では難しく、知人から猟犬を借りて兎を仕留めることもありましたが、獲物は大抵鳥だったようで、日記には、船上から鴨を撃とうとしたが、十二番径の銃では射程距離まで近づくのが大変であることや、鶉(うずら)に対し発砲するも命中せず呆然としたといったエピソードが生き生きと描かれています。


猟姿の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P06_066) 
弟・又四郎の言によれば、又三郎は獲物の調理もなかなか上手であったそうです。

そんな又三郎、明治34(1901)年には念願の“優秀な”猟犬「トー」を手に入れます。これまで芝川家にも6頭の犬がいたのですが、狩猟に素質ある犬もあれば、「てんでだめ」な犬もあったようで、又三郎は「予は此犬を得たる以上は兎を得る事殆ど確実にして、一度追ひ出さるるときは之を逸する心配なく満足限りなし」とその喜びを綴っています。


愛犬「トー」(千島土地株式会社所蔵 P12_041) 
又三郎が福島良助より譲り受けたこの犬は、もともと西郷侯爵から福島氏に贈られた犬でした。


弟、妹達と愛犬(千島土地株式会社所蔵 P12_006) 

以上、又三郎の愛した写真、釣り、狩猟についてご紹介しましたが、これらに共通するのは野外で体を使う趣味である点です。先述の通り、又三郎自身も写真の利点として「体育を助くる事」を挙げていましたが、幼少時、体が弱かった又三郎は、意識的に野外の空気に触れ、自然の中で体を動かす活動を通じて体力的にも、そして精神的にも自らを鍛えようとしていたのかも知れません。

※文中の年齢は全て数え年で表記しています。

*)葛城思風
写真師。明治10(1877)年に大阪で写真館を開業。

■参考資料
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「児童生活第六十八号別冊 紫草の生涯」、庄野貞一
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969

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