初代芝川又右衛門は、明治8(1875)年に家督を息子の二代目又右衛門に譲り、又平と称して隠居します。隠居生活の中で又平が力を注いだのが、実家の家業であり、芝川家への入家以前に自らも一時生業としていた蒔絵でした。
明治初期、漆器は西洋の富裕層の間で大変人気があり、日本の重要な輸出品のひとつに位置づけられていました。しかしながら、こういった状況から漆器の粗製濫造が進み、明治10年代半ばには輸出品としての評価にも翳りが見られるようになります。
又平が再び蒔絵を志したのはちょうどその頃のこと。明治18(1885)-19(1886)年頃、又平は道修町4丁目の持家を提供し、篤志者数名を抱えて蒔絵の技の研究に取り組むようになります。更に、より広く長く蒔絵の技術を伝承、発達させたいと蒔絵学校の設立を企図しますが、資金や法規等の関係から実現せず、明治23(1890)年4月、住友、芝川両家で半額ずつ出資して、道修町4丁目6番屋敷に創設されたのが「有限責任浪花蒔絵所」でした。
明治20年代は漆器の製作環境の見直しが図られた時期であり、折りしも前年の明治22(1889)年に開校した東京美術学校(現・東京芸術大学)にも漆工科が設置され、漆工技術の新たな担い手育成への取り組みが始まっていました。
蒔絵学校設立に端を発する浪花蒔絵所も後進子弟の養成を主な目的とすることに変わりはなく、資料からはその設立後も、有効な指導方法や意匠図案の選択について、専門家に意見を求めていたことが伺えます。
さて、浪花蒔絵所開業翌年の明治24(1891)年、2年後に米国で「シカゴ万国博覧会(コロンブス世界博覧会)」が開催されるというニュースが伝わります。これぞ日本独特の妙技・蒔絵を世界に宣伝する好機であるという住友総理人・廣瀬宰平氏の考えの下、浪花蒔絵所では博覧会に向けて業務の進展が計られることとなります。その中で、従来の組合事業から法人への改組が実施され、明治25(1892)年12月、「有限責任日本蒔絵合資会社」が誕生しました。
その設立趣意について、「日本蒔絵合資会社 付属徒弟教養規則」には、
「我国特有の妙技として往古より伝習し来りける蒔絵術をして益滋振起発達せしめん為め是に後進子弟を教養し将来良師良工を輩出し愈精巧緻密を極め我邦特技を海外に発揮せんことを謀る」
と記されており、ここでも後進の育成が目指されると共に、世界の桧舞台である万国博覧会に向けての又平の志や意気込みも伝わってきます。
生徒には入学金、授業料を納めて学ぶ「自費生」の他に、蒔絵会社内に宿泊し、諸物品が貸与される「貸費生」があり、「貸費生」には卒業後満三年、蒔絵所で後進の育成や製品の製作にあたることが義務付けられました。
在学年限は5年間で、授業時間は午前7時始業 午後7時終業のなんと1日12時間、休日は毎月1日と15日、大祭日、年末年始、氏神祭礼に限られており、現代の“ゆとり教育”からは想像もできない教育課程です。
一方、器物製作と筆記・口頭の両試験からなる定期・卒業試験では、試験結果が優秀な生徒にはご褒美が出るという生徒にとっては励みになりそうな規定も。
高度な蒔絵の技術を身につけるためのハードな授業ながら、生徒達は志高く、熱意をもって日々技術の練磨に励んでいたのではないでしょうか。
■参考資料
「投資事業顛末概要七 日本蒔絵合資会社」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
東京藝術大学サイト
※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。