明治23(1890)年に設立された浪花蒔絵所(後の日本蒔絵合資会社)は、シカゴ万国博覧会をはじめ、国内の博覧会や共進会にも積極的に出品し、数々の賞も受賞してきました。
しかしながら、将来を担う良工の育成を主眼としていたこの事業は、そもそも営利目的ではなく、会社組織として運営する際に色々と不都合が生じてくるようになります。出資者である住友家、芝川家協議の結果、明治31(1898)年、合資会社を解散し、以後は芝川家の個人経営に切り替えられることとなりました。
一方、かねてより漆器類には、欧米の空気の乾燥によって破損してしまうという弱点があり、シカゴ万博の際にも、その出品作品の素地に充分な乾燥対策を施す必要が議論されていました。
こうした弱点を克服するために素地の改良に取り組むべく設立されたのが「芝川紙製漆器工場(後の「芝川漆器合名会社」)」です。
この事業は、東京高等工業学校校長 手島精一氏の紹介で、ドイツ人科学者 ゴットフリート・ワグネルの下で応用科学を研究した間瀬正信氏に芝川家が出資する形で始まったもので、明治27(1894)年より、当初は日本蒔絵合資会社の事業として三軒屋の芝川家所有の土蔵において試験的に製作が開始されました。
その後、「ヘンリーペーリー会社製350噸の汽働水圧器」を購入して本格的な製造を開始し、明治33(1900)年、蒔絵会社から分離した芝川家単独経営の「芝川紙製漆器工場」が千島新田の木津川沿いで始業しました。そこでは「紙製漆器の素地は全部型により圧搾し製出するものなるが故に新型の製作、既製型の修繕等鉄工を要するもの多」いとして鉄工業も事業として行われます。
数年後、「我紙製漆器は其の生地能く水湿と乾燥に耐え、堅牢緻密にして膨張収縮の憂なく・・・品質を根本的に改良せり」と、理想に近い製品を製造することができるようになります。しかしながら、製造に木製漆器以上の手数がかかることなどから、なかなか価格を抑えることができなかった上、間瀬氏の病気による退任や経済界の不況も重なり、その経営状況は厳しいものでした。
明治36(1903) 年には紙製漆器工場に注力するため蒔絵事業を閉鎖し、また農商務省より試験費の補助を受けるなど立て直しが図られますが、明治44(1911)年、工場での火事の発生を契機に殆ど休業状態となり、蒔絵に情熱を傾けた又平(初代又右衛門)の死去4年後の大正5(1916)年、芝川漆器合名会社は遂に解散することとなりました。
後年、又平の孫・芝川又四郎は、当時の紙製漆器を取り巻く状況について、エナメルを吹きつけて製作したドイツ製品が日本の本物の漆とは比較にならないほど安価で、日本の製品は、評判はよくても売ろうと思えば売れなかったと振り返っています。一方、「美術の技術はあくまでも保存し、りっぱなものを輸出したいというのが祖父の考えでした」との一文に、自らも蒔絵師であった又平の真の意図を垣間見ることができるようにも思われます。
■参考
初代・芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 日本蒔絵合資会社の設立~
初代芝川又右衛門 ~蒔絵への情熱 シカゴ万博への出品~
■参考資料
「投資事業顛末概要九 紙製漆器工場」
「世界の祭典 万国博覧会の美術」、東京国立博物館ほか編集、NHK/NHKプロモーション/日本経済新聞社、2004
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
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