高級住宅地として知られる大阪住吉区の帝塚山。
この地が区画整理され、住宅地として開発されたのは、明治末から大正時代にかけてでした。
1875(明治8)年の住吉大社周辺地図(「大阪古地図集成」第十九図より)
街道沿いにいくつかの集落があるのがわかります。
1886(明治19)年の住吉村(「大阪古地図集成」第二十二図より)
住吉大社(▼)周辺に村落があったに過ぎず、現在の帝塚山周辺にはまだ住宅がありません。
元来、帝塚山周辺の土地は、耕地に適さない上、凹凸が激しく、地区も雑然として道路も整備されていなかったといいます。
ところが、人口増加による食糧不足を背景に農業の近代化を目的とする農地改良が急務となり、大阪でも相次いで耕地整理組合が設立されます。
住吉村でも、1912(明治45)年に村長・太田儀兵衛が組合長となり、住吉村住民による耕地整理組合を設立。1913(大正2)年より、字 大原、奥大原、野の内、清水、大帝塚の4万坪を超える土地の耕地整理に着手しました。
「東成郡住吉第一耕地整理組合地区及之ニ隣接スル土地現形之図」
(千島土地株式会社所蔵資料 Y02_008_005)
耕地整理の対象となった南海電車支線(現・阪堺電鉄上町線)と南海電車支線(現・南海電鉄高野線)の間の土地は、その殆どが田地か畑地であったことが窺えます。
耕地整理組合が組織される前年の1911(明治44)年、帝塚山界隈で最大の地主であったという山田市郎兵衛を中心に、山本藤助、久保田権四郎、田附政治郎、そして芝川又右衛門ら17名の当地地主により「東成土地建物株式会社」が設立され、1914(大正3)年に耕地整理が完了した後、帝塚山を住宅地として分譲していきます。
「東成土地建物株式会社経営地之図」(千島土地株式会社所蔵資料 Y02_001_004)
前出の耕地整理された土地がそのまま東成土地建物㈱の経営地となっている様子がよくわかります。
当地の宅地分譲においては、耕地整理の際、当初より地区内全ての道路に町名を付したことから、最初から宅地造成を目的に耕地整理を行ったのではないかといった指摘もあったようですが、大阪の都市人口が膨張し続けていた当時、大阪中心部からのアクセスが便利な上、環境も良好な当地には、大阪の名士が相次いで邸宅や別荘を構え、「帝塚山」は瞬く間に高級住宅地へと変貌していきました。
■参考資料
「住吉村誌」、(財)住吉村常盤会、1976再版
「住吉区史」、(財)大阪都市協会編集、住吉区制七十周年記念事業実行委員会、1996
「大阪建設史夜話」、玉置豊次郎、(財)大阪都市協会、1980
「移りゆく住よし」、石田実・石田和美、1988
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
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