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初代・芝川又右衛門 ~「芝川組」と「新芝組」~

「芝川組」と「新芝組」は明治時代に芝川又平(初代又右衛門)が開業した諸国荷受問屋です。諸国荷受問屋とは、生産地の荷主から送られた荷物を仲買人に委託販売する業者のことで、荷物の保管や荷為替を担保として金融業を営むなど、現在の倉庫業や銀行業に相当する業務を行うものもありました。

1879(明治12)年11月、芝川出店の名義で荷受問屋が開店します。川から船で運び込まれる荷物の積み下ろしが可能な浜付倉庫を備える必要があったことから、店は川沿いの大阪市西区立売堀に構えられました。

芝川家が出資したのに対し、実質的な運営を行ったのは、芝川又平と共に大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の理事を務めた加藤祐一です。加藤は東京の福沢諭吉に対し関西随一の新知識と言われ、五代友厚の片腕として活躍した人でした。

さて、開店後の諸般事務が一段落すると、2名の店員が手拭い、盃、扇子、風呂敷といった宣伝用品を持って山陽・山陰地方を中心に各地の有力商店を回り、開店披露と得意先開拓の営業活動を行います。なんと約2ヶ月で680余店を訪問したのだとか。

そんな営業活動の甲斐あって1880(明治13)年9月には独立経営の見込みが立ち、資本金6,000円の組合事業として「芝川組」が創立されました。社長は加藤祐一。出資金は芝川又平、加藤祐一、園田友七(芝川家別家)の3名がそれぞれ2000円ずつを出しますが、加藤、園田の2000万円は芝川家が貸付けていたことから、資本関係は従来と実質的には変わりませんでした。

事業は徐々に軌道に乗り、周防の半紙、薩摩の錫、石見の荒銅や鉄、長門の米など各地の多岐にわたる品物が取り扱われ、取引高も増加していきます。

しかしながら、1882(明治15)年になると入荷が次第に減少し、経営に翳りが見られるようになります。それに追い打ちをかけたのが、或る事件により社長である加藤が収監されたことでした。これにより加藤は組合脱退を余儀なくされ、「芝川組」は解散することとなります。

その翌月、「芝川組」の権利義務一切を引き継いで「新芝組」が創立され、新社長に就任した井上卯吉が中心となって経営の再建に努めますが、結局事業不振が改善されぬまま、「新芝組」は1883(明治16)年7月末日をもって閉店することとなりました。

■参考資料
「五代友厚伝」、宮本又次、有斐閣、昭和56
「投資事業顛末概要三 芝川組 新芝組」、津枝謹爾編纂、昭和8
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)

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