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「宝塚少女歌劇」関連資料

大正3年に第一回公演が行われて以来、多くの人々の心を捉え、人気を博した宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇団)。阪神間で青春を送った芝川弥生子(芝川又之助長女、芝川家6代目当主・芝川又四郎の姪にあたる)もその華やかな舞台に魅了された一人でした。

今回は弥生子所蔵資料の中から、昭和10年代を中心とする宝塚少女歌劇関連資料をご紹介します。

●しおり&絵はがき
日本的なものから外国のものまで非常に多彩な演目に驚かされます。

●「歌劇」
最も歴史の古い宝塚歌劇団の月刊機関誌。1932(昭和7)年を境に表紙がイラストからスターの顔写真に変わりました。

●「宝塚グラフ」

●「東宝」
東宝は東京宝塚の略。昭和9年、有楽町に東京宝塚劇場が完成し、宝塚少女歌劇団は東京進出を果たしました。
昭和18年発行の「東宝」誌の厚みは前年の半分ほどですが、これはいよいよ悪化した戦局の影響でしょうか。

●「歌劇脚本集」

●スターポートレイト集
トップスターとして戦前の宝塚歌劇の黄金期を支えた小夜福子と葦原邦子。装丁デザインが素敵ですね。

●レコード

●スクラップブック
弥生子が大ファンだった佐保美代子に関する記事が多数見られます。

●弥生子アルバム
弥生子のアルバム写真の中には、宝塚少女歌劇の運動会などで撮影されたと思われる写真も収められています。

●歌劇日記
宝塚少女歌劇団発行のとても魅力的な装丁の日記帳。観劇の感想のほか、弥生子の日常についても記されています。

●海外公演関連資料
宝塚少女歌劇団は、昭和13年に初の海外公演(ドイツ、イタリア、ポーランド)を行い、翌年昭和14年にはアメリカ公演も行いました。

写真中のナチス・ドイツの旗が時代を物語ります。

●40周年関連資料
昭和29年、宝塚歌劇団は40周年を迎えました。
この年の9月、元スターの佐保美代子が青函連絡船洞爺丸の事故により死去します。彼女のファンだった弥生子に与えた衝撃は大きく、以後、弥生子は宝塚歌劇から遠ざかることになったといいます。

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