2017年5月11日に、御堂筋は完成80周年を迎えました。
この機会に、御堂筋の建設において重要な役割を果たした、芝川家に縁のある人物をご紹介したいと思います。
その人物とは、直木倫太郎。直木の四男・惇(あつし)が、芝川又四郎の長女・百合子と結婚(婿養子)したことから、芝川家の姻戚となった方です。
▲直木倫太郎(『燕洋遺稿集』より)
直木は1875(明治8)年に兵庫県で誕生。東京帝国大学土木学科を卒業後*)、東京市や大蔵省臨時建築部で東京築港計画や横浜築港事業に携わった技術のスペシャリストです。東京で実績を積んだ後、1917(大正6)年に大阪市から招請され、池上四郎市長、関一助役の下、港湾部長兼市区改正部長として大阪の都市改造を牽引しました。
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東京では1888(明治21)年に「市区改正条例」が公布され、大阪でも1886(明治19)年に「市区改正の計画を請ふの建議」が建野郷三大阪府知事に提出されたのを皮切りに、その後も何度か市区改正を求める動きがあったものの、財政上の理由などから結局実施には至りませんでした。
1914(大正3)年に第一次世界大戦が起こると、大阪は好景気に沸き、財政事情が好転するとともに、工業化・都市化に対応する都市づくりへの必要性が高まります。1917(大正6)年に、関一助役を委員長とする都市改造計画調査会が設置され、翌年、池上市長に報告書を提出。それをもとに「大阪市区改正設計」が作成され、内務省大阪市区改正委員会での審議を経て、1920(大正9)年に告示されました。
この「大阪市区改正設計」のベースとなった「大阪市都市計画説明書(交通運輸之部)」の中で、“市の将来に取りて、交通上商業上また美観上、最高級の使命を荷はしむ”「一等道路」として計画されたのが御堂筋でした。
直木は、都市改良計画調査会委員、市区改正部長、内務省大阪市区改正委員会委員として、この一連の計画の策定に深く携わります。また、1920年に大阪市に都市計画部が設置されると、初代都市計画部長に就任して第一次大阪都市計画事業を指揮しました。
大阪の都市計画の推進者としては、何と言っても関一が有名ですが、関の下で具体的な事業計画策定を指導したのは直木であったと言われています。1923(大正12)年に関東大震災が起こると、直木は帝都復興院に技監(技術陣のトップ)として招聘されますが、関はこの引き抜きについて、「大阪市にとりては一大打撃なり。殊に余の腹案に対しては、ほとんど回復し難き損失なり」と嘆きました。
第一次大阪都市計画事業は関東大震災を受けて修正され、1926(大正15)年に御堂筋が着工します。この時、直木は既に大阪を去っていましたが、大阪の都市計画策定に深く関わった直木は、今につながる都市大阪の礎を築いた、大阪にとってなくてはならない人だったのです。
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関東大震災後、帝都復興院技監(のち復興局長官)に就任した直木は、1925(大正14)年にこれを辞し、大林組取締役兼技師長に就任します。*2)その後、「満州国」からの招請を受けて1933(昭和8)年に赴任し、技術陣のトップとして国土づくりに奔走しますが、1943(昭和18)年、視察中にひいた風邪がもとで急性肺炎を患い、彼の地で亡くなります。享年67歳でした。
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さて、技術者としての生を全うした直木倫太郎は、一方で、「燕洋」と号す俳人でもありました。高浜虚子、河東碧梧桐とは第二高等学校の同期生であったほか、正岡子規に師事し、ホトトギスの同人として活躍。夏目漱石、中村不折、滝廉太郎*3)、永田青嵐*4)等とも交友があり、土井晩翠をして、燕洋が残念なのは土木技術者であること、と言わしめたほどの力量であったといいます。
また、技術者を対象とした専門誌『工人』に記事を寄せ、技術者の地位向上を熱く訴えたほか、演説も上手く、大阪市区改正委員会の時の住民説明会における市民講演は、「殊に直木君の大大阪建設大受なり」と関一が日記に書き残すほどで、ここにも直木の文学的才能を見て取ることができます。
「直木さんは一種の徳があった。人の追及できないものがあった。親分もなければ、また乾分なし。水の如く空気の如く掴むこともできず、また捕えることもできず、淡々乎としていく処、皆佳。」と部下が評した直木の人柄は、技術者の枠に捕われず、文学を通して得た、幅広い交友や視野によって培われたものであったのかも知れません。
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▲1932(昭和7)年、直木惇と芝川百合子の婚礼写真(千島土地株式会社所蔵資料P11_038)
前列中央の新郎新婦を挟んで、媒酌人の大林義雄・尚子夫妻。左が直木倫太郎・隆子、右が芝川又四郎・竹。芝川又四郎には又彦、又次の二人の男子がいたが、長女・百合子に直木家から婿養子を迎えたことについて、「又彦があまり(ママ)小さいし、私に万一のことがあった場合を考えてのこと」と述べている。
▲正岡子規の根岸草庵(子規庵)での蕪村忌(『燕洋遺構集』より)
前列中央が正岡子規、二列目に高浜虚子、中村不折、三列目に河東碧梧桐、直木燕洋(右から6人目)。
▲直木倫太郎句碑「雲凍る この国人と なり終へむ」
直木が最初に病床についた湯池子(タンチーズ)の丘には、直木の句碑が建てられ、「燕洋ケ丘」と名付けられた。
*)明治32(1899)年、直木は「銀時計組」として東京帝国大学を卒業。東京帝国大学では、明治30年から各学部成績優秀者(主席・次席)に天皇からの褒章として銀時計が授与されており、この銀時計を賜った者は「銀時計組」と呼ばれた。なお、土木学部の同期には、後に鹿島組(現・鹿島建設㈱)社長となる鹿島精一がおり、卒業席次は直木が主席、鹿島が次席であったという。
*2)直木は年俸1万円で大林組に招かれたが、当時、これは国務大臣に匹敵する額であった。
*3)滝廉太郎:滝と直木の友情は、六代 桂文枝氏の創作落語「~熱き想いを花と月に馳せて~滝廉太郎物語」で描かれ話題となった。
*4)永田青嵐(せいらん):本名・永田秀次郎。第7代東京市長・後藤新平の助役を務め、後藤退任後、第8代東京市長となる。直木とは学生時代からの知り合いで、同宿したこともあったという。
■参考資料
『「都市計画」の誕生 -国際比較からみた日本近代都市計画-』渡辺俊一、柏書房、2000
『技術者の自立・技術の独立を求めて -直木倫太郎と宮本武之輔の歩みを中心に-』土木学会、土木図書館委員会 直木倫太郎・宮本武之輔研究小委員会編集、土木学会、2014
『燕洋遺稿集』燕洋遺族代表 直木力編集発行、昭和55
『鹿島建設百三十年史』鹿島建設社史編纂委員会編、鹿島研究所出版会、1971
『大林組百年史 1892-1991』大林組社史編集委員会編集、大林組、1993
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