前回記事(村山龍平と芝川家5 大阪殖林合資会社)で、芝川家と村山龍平氏との共同事業である「大阪殖林合資会社」について書きましたが、社内にはこの経営地に関する写真アルバムも残されています。今回はアルバムの写真をご紹介しながら、経営地の様子を見ていきたいと思います。
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社内のアルバムの写真が撮影された時期は不明ですが、大正あるいは昭和初期に撮影されたものではないかと思われます。撮影したのは芝川本店の社員で、業務というより視察を兼ねた社員旅行のような形で訪れたようにも見えます。
ルートは以下の通りです。
高野山大門にて(千島土地株式会社所蔵資料P42_002)
いざ出発!
新子渓谷(同P42_022)
新子の村を望みて(同P42_039)
新子 橋本旅館前(同P42_025)
護摩壇山へ向かって(同P42_006)
皆さん軽装だと思ったら…お荷物、持っていただいていたんですね。
ちなみに全員分の荷物を持って下さっているのは「人夫の小川氏」だそうです。
これだけの荷物を持って山を登るなど、都市生活者にはきっと真似できません。
笹ノ茶屋(同P42_027)
護摩壇山 頂上にて(同P42_009)
小森にて(同P42_011)
龍神温泉(上:同P42_023、下:同P42_013)
枯れ木の間より十津川を眺む(同P42_031)
小川山、龍神間の橋(上:同P42_029 下:同P42_026)
この橋、特に下の橋のなんとスリリングなこと!とても私は渡れません…。
いよいよ経営地に近づきます。
小川山の人家(上:同P42_014 下:同P42_050)
小川山の人々(同P42_016)
事務所(同P42_048)
小川山谷間(同P42_051)
小川山(同P42_053)
小川山 手入れ(同P42_057)
(上から:同P42_052、P42_055、P42_059)
経営地の山中はまさに道なき道で、うっかり入ると間違いなく迷ってしまうでしょう。
植林事業は、山、そして山の木を知り尽くした「山人」と呼ばれる現地の人々があってこその事業であったことを痛感します。
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さて、これらの写真が撮影されるより前、会社設立後間もない頃に、社主である二代目芝川又右衛門が初めて経営地に入山した時の記録を最後にご紹介いたしましょう。
和歌山まで汽車にて、それより海岸を人力車にて走り、途中湯浅に一泊し、翌日、南部在の外山宅(南部に滞在し現地を監督した社員・外山秋作の家)に着せり。翌日、加藤助次郎なりしか、大和の山林家なりという者一人加わりて案内者となり出発せり。翁(芝川又右衛門)は駕籠にて、他は徒歩にて途中ある一小部落に一泊して入山せり。着山後に植林地を一見し事務所まで下りしに天気模様急に険悪となりければ、山に一泊の予定を変更し、休憩の後、早々帰途に就き、夕暗迫る頃ある一部落に一泊して外山宅へ帰り、また一泊の上出発帰途に上り再び湯浅に一泊して帰れり。
<中略>
この頃は事業着手後日尚浅く、何ら見るべき事績もなかりしが、途中にて山の稼ぎ人達が土下座して低頭平身して出迎え居りたりしには真に一驚を喫したり。山林巡視の際、山人は翁を背負わんとして背を翁に向け、如何に翁の辞するも聞かず、翁も否み兼ね彼等の好意を容れ、負われて山に登り巡視せり。(『芝蘭遺芳』p.321-322より)
これら資料に見られる山へ至る道、山そして山で暮らす人々の様子に、隔世の感を禁じ得ません。
■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「店員生年月日調査表」、『大正15年度芝川店書類仮綴』(千島土地株式会社所蔵資料G00963_336)
『雇人証書』(同G01109)
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