さて、二代目芝川又右衛門が貸金の抵当流れから手に入れた大市(甲東園)の土地。先の記事でご紹介した確証の地目から、その殆どが田畑であったことがわかります。しかし、それらは「1反歩5斗の年貢すら皆納せしことなき貧弱至極の地所」(『芝蘭遺芳』より)だったようで、用水池を開削するなど改善を試みますが、上手くいきませんでした。そこで、店員の岡本市太郎を派遣し、実地調査の上で今後の方針を探ることに。結果、水田としては水を保てず、畑としては旱魃に耐え難い、果樹を植樹するほかないとの結論に達し、試験的に果樹栽培が行われることになります。明治29年のことでした。
果樹園には、蜜柑や葡萄のほか、桃、林檎、梨、レモンなど様々な果樹が植えられました。また明治31年には、樅、栂、槇、桜、梅、サツキ、クチナシなど果樹以外の樹木を購入し、植え付けました。果樹以外の樹木の多くは後に売却されましたが、その一部は今も甲東園に残っているかも知れません。
なお芝川家の記録には、明治33年4月に果樹園の名称を変更することになり、「甲東園」に改称したとあります。ではそれまで何と呼ばれていたのか気になるところですが、現在のところ、それが明らかになる資料はまだ見つかっていません。残念!
さて、果樹園が開設されたのは、字・山畑新田。昭和15年の資料には、阪急電鉄西宝線の西側に「芝川農園」の記載があり、その位置を知ることができます。
「兵庫県武庫郡甲東村土地宝典」(昭和15年)より(千島土地株式会社所蔵資料K03_013)
そしてこちらの資料。詳しい年代は不明ですが、もう少し新しいものと思われ、農園の詳細を知ることができます。
「農園略図」(千島土地株式会社所蔵資料K03_002)
柿、桃、葡萄、李。よく見ると小さな文字で樹齢や前作の樹木名も記載されています。また、麦、いも、野菜の栽培ほか、鶏舎や豚舎も記載されており、養鶏や養豚が行われていたことがわかります。寒さに弱い豚さんのための施設でしょうか、豚舎の脇には210坪の「温熱暖床」も!
明治45年に洋館、昭和2年に和館が建設された「芝川又右衛門邸」との位置関係はこんな感じ。上の「農園略図」を反時計回りに90度、くるりんと回転すると、赤枠にすっぽり収まりますね。
青枠の芝川又右衛門邸についてはまた改めてご紹介したいと思います。
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