さて、前回の記事では芝川又右衛門邸「洋館」と昭和2年に増築された「和館」についてご紹介しました。
しかし、明治44年に「洋館」が建設されて以来、その周りには様々な建物が建てられ、庭園が造られていきました。こうして整備された「甲東園芝川邸」の面積は7,500坪にも及んだといわれています。
園内はその時々に応じて土地を造成したり、樹木を移植したりと形を変えていったようですが、今回は昭和14年の敷地平面図を見ながら甲東園芝川邸内をご案内したいと思います。
昭和14年の甲東園別荘敷地平面図(千島土地株式会社所蔵資料K01_016_001)
①芝川又右衛門邸(洋館)
②芝川又右衛門邸(和館)
③茶室「山舟亭」と「不老庵」
茶室「山舟亭」(『芝蘭遺芳』より)
「山舟亭」は、茶人・高谷宗範の設計監督により、庭園は大分県の名勝・耶馬渓の趣を取り入れて造られたといわれています。山の中の風物の推移に応じて舟のように移動させることからその名がつけられ、当初は単独で建っていたものが、後に茶室「不老庵」とひと棟にまとめられました。
「山舟亭」については過去記事「芝川家のお茶会 ~大正2年の甲東園茶会~」でもご紹介しておりますので是非ご覧ください。
③茶室「松花堂」と④庭園(大正年間竣工)
溜池から見た茶室「松花堂」(千島土地株式会社所蔵資料P38_059)
和風庭園(千島土地株式会社所蔵資料P38_043)
もと大阪伏見町芝川邸にあった茶室「松花堂」を、大正期に甲東園に移築。移築に際しては茶人・高谷宗範の設計監督の下、付属広間や和風庭園も設けられました。
平面など詳細は過去記事「茶室「松花堂」の建築」でご紹介しています。
⑤「寿宝堂」
「寿宝堂」(千島土地株式会社所蔵資料P11_042)
二代目芝川又右衛門の傘寿(八十歳)の記念に昭和8年に建立された持仏堂。建築家・武田五一の設計で建てられ、現在は名古屋市に移築されています。
こちらも過去記事「二代目・芝川又右衛門 ~「寿宝堂」と「香山集」~」をご参照下さい。寿宝堂内部の観音像については、こちらの記事「興福院(こんぶいん)と芝川家」でも触れています。
⑥書庫(図書館)
(千島土地株式会社所蔵資料P11_039)
建築家・武田五一による設計で、校倉造の技法を取り入れたとされています。場所は調査中ですが、現在有力と考えているのが⑥の位置です。竣工時期も不明ですが、芝川家の蔵書については大正年間に『芝川甲東園文庫和漢図書分類目録』が作成されており、書庫の建設もその頃だったのではないかと推測しています。
⑦茶室「土足庵」
「土足庵測量図」(千島土地所蔵資料K01_048)より「土足庵」と思われる建物
「土足庵」は立礼式の茶室であったといわれていますが、写真も図面も残されていません。唯一残されているのが上記の資料で、この資料に記されたのが⑦の場所です。しかし昭和14年の図面には何も描かれておらず、どこかに移築された可能性もあります。
⑧洋風庭園
(千島土地所蔵資料P38_001:上、P38_052:下)
如何でしたか?芝川邸の全体像をイメージしていただけたでしょうか?
甲東園の整備について、二代目又右衛門の娘婿である塩田與兵衛が「私は樹を移したり、地を低めたりすることが大層なことと思いました。(中略)私には大袈裟に思われることが、翁(二代目又右衛門)には何でもなさそうなのが意外でありました。」(『芝川得々翁を語る』p.18-19)と振り返るように、甲東園芝川邸は、図面の描かれた時期によって建物や道路の位置さえも異なります。
このことからも二代目又右衛門が如何に時間や手間を惜しまず、丹精込めて甲東園の整備を行ったかを伺い知ることができます。
甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
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