芝河多仲(たちゅう)、対馬より京に出て医業を営む
多仲女婿 新六、大坂淀屋橋浮世小路に呉服商(百足屋(むかでや))開業
新六女婿 新助、唐物商をはじめる
この頃、「芝河」から「芝川」に
唐物商の屋号は、百足屋新助から「百新(ひゃくしん)」とする
新助女婿 又右衛門、
分家して船場伏見町で唐小間物商を営む
京都の蒔絵師の家に生まれた又右衛門(またえもん)は、18歳で自らも蒔絵師として独立。
知人に誘われて始めた銅板染付陶器(鹿背山(かせやま)焼)製造を事業化し、販路拡大のため訪れた「百新」芝川新助に商才を見込まれて芝川家に入婿することとなる。
入婿後は分家して唐小間物商(屋号は、百足屋又右衛門から「百又(ひゃくまた)」)を営み、幕末の動乱期に堺、長崎、江戸と商売を拡大して巨富を築く。
開国後は海外貿易の知見を買われて国の為替関連業務を命じられ、重要な役割を果たした。
明治初期、縁のある奈良の寺院(興福院)で取付騒ぎが起きた際には、2千両を持って駆けつけ、知事でさえ制止できなかった騒動を瞬く間に鎮静したという。
隠居後は「堂島米商会所」や「大阪商法会議所」の設立、運営に貢献したほか、若手画家の支援や、蒔絵学校の設立など、芸術の分野でも後進の育成に努めた。
教育への貢献
蒔絵学校を設立した初代芝川又右衛門に限らず、芝川家は代々教育への関心が高く、様々な学校への支援を行った(子女が通う学校への寄付等は除く)。
- 大阪商業講習所(現・大阪公立大学):寄付により草創期の存続を支える
- 日本女子大学:発起人、創立時の寄付
- 須磨浦小学校:創立メンバー
- 関西学院:移転用地の寄付ほか
- 芝蘭社家政学園:設立
- 帝塚山学院:寄付、郊外学舎建物の無償提供
又右衛門の長男 又次郎が家督を継ぎ、
2代目又右衛門となる
又右衛門の一人息子の又次郎は、14、15歳の頃から父親の家業を手伝い、1870年に西洋雑貨店を開業し独立するが、築いた資産で土地を購入し唐物商を廃業。
以後は不動産業を主軸に家業を守った。
土地の目利きで順次所有地を広げ、植林事業も手がけたほか、抵当流れで手に入れた西宮で果樹園「甲東園」を経営、栽培した梨やぶどうは昭和天皇にも献上された。
1944年には、甲東園に建築家・武田五一設計の別荘を建設して、茶室や庭園のほか、道路などのインフラ整備も進め、これが後に関西学院が甲東園(上ヶ原)に移転する決め手になったともいわれる。
阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)開通の折には小林一三と折衝し、土地を寄付することで停車場(現・甲東園駅)を設置。
茶道を嗜み、藤田伝三郎、住友吉左衛門、村山龍平らと茶の湯の会を立ち上げ、数寄者としても名を馳せた。
2代目又右衛門、大阪湾岸・河口地域の土地(新田)を購入
千歳新田(1878年)、加賀屋新田(1879年)、千島新田(1886年)と合計約180万㎡の新田を購入し、より安定的な資産継承のため、唐小間物商(貿易業)から土地経営に事業を転換
大繩地事件落着
芝川家が千歳新田地先に所有する大繩地(埋め立て許可を受けた水面)について、大阪市が事前相談なく、埋め立てて売却する計画を進めた事件。
調停の結果、芝川の主張が認められ、大繩地を大阪市に売却することで決着したが、芝川は、自らの権利が蔑ろにされたことに対し争ったもので、利益を得るつもりはないとして、代金から裁判費用を差し引いた全額を築港費として大阪市に寄付した。
千島土地株式会社 設立
芝川家が所有する新田を順次購入して小作交渉を行い、農業用地を産業用地、工業用地に転換
近代大阪の発展を支える
芝川の名を表に出したくないとの理由から、所有新田由来(千歳と千島)の社名とした。
大正運河 竣工
隣接地の地主と協働し、所有地に尻無川と木津川をつなぐ運河を開削
水路や貯木場も整備し、木材街として繁栄する礎を築く
(貯木場は戦後、大阪市の都市計画事業により住之江区平林に移転)
インフラ整備への貢献
大正運河ほどの規模は珍しいが、千島土地設立以前より、所有地を活性化するためのインフラ整備には積極的に取り組んできた。阪堺鉄道(現・南海本線)や阪堺電鉄(のちの大阪市電阪堺線)の敷設に発起人として携わるなど、財界人や周辺地主と共に道路や鉄道の敷設、掘割の掘削、橋の架橋などを自ら行ったほか、必要な道路・鉄道用地の寄付も惜しまなかった。
「千島土地農場」の開設
1928年に住宅経営を目的に兵庫県川西市に土地を購入するも、戦争の影響で計画を変更
戦時下で植木苗の育成と販売、畜産業に取り組む
一部所有地が農地買収の対象に
土地区画整理事業未了のまま終戦を迎えた津守、北加賀屋の所有地の一部が農地とみなされ買収の対象に
当社は宅地である旨主張して最高裁まで争うも棄却され(1977年結審)、約28,000坪の土地を失った
北加賀屋所有地の埋立改良工事に着手
芦の生い茂る低湿地で活用の見通しがつかなかった北加賀屋所有地の埋立工事を実施し、1960年までに42,000坪が宅地として使用できるようになる
建物賃貸事業を開始
この年竣工した「京町堀千島ビル」を嚆矢に、2000年前後までビルやマンションの建築や取得に積極的に取り組み、従来の土地賃貸に加え、建物賃貸事業を手がけるようになる
福岡に事業地を取得
阪神間に集中していた事業地を福岡にも拡大
1987年頃まで事業用不動産の買換えを進め、福岡の事業用地は最大約3万坪に及んだ
航空機リース事業を開始
航空機のレバレッジド・リース案件に参画
レバレッジド・リースの消滅に伴い、1998年以降はオペレーティング・リース事業に取り組む
「千島ガーデンモール」竣工
大正区のまちづくりの観点から商業施設(ショッピングモール)を企画、建設
アーティスト支援の取り組みを開始
アートイベントへの長期に亘る会場提供など、所有不動産を活かしたアーティスト支援を始める。
芝川家と芸術
芝川家の当主は代々、若手画家の作品を購入して無名時代の制作を支えた。
殊に自らも画家として京都画壇の末席に名を連ねた初代又右衛門は絵画への見識が高く、西山完瑛、木島櫻谷、深田直城など後に名を成す画家を多数支援したほか、須磨の別邸には田能村直入が逗留し、共に合作などを楽しんで50年に及ぶ親交を結んだ。
(西山完瑛の作品数百点を引き受け、表装して進物としていたが、後に完瑛が名を上げ、購入希望者が殺到したため、一室に籠って居留守を使ったとの逸話が残っている)
「クリエイティブセンター大阪(CCO)」開設
1988年に現状有姿で返還された名村造船所大阪工場跡地(2007年に経済産業省の「近代化産業遺産群33」に認定)を整備し、アートの発信拠点として活用
2009年に「北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想」を提唱し、CCO周辺にも様々なクリエイティブ拠点を設置するなど北加賀屋でアートのまちづくりを推進(この取り組みは2011年の「メセナアワード」で「メセナ大賞」を受賞した)
「芝川ビル」が国の登録有形文化財となる
1927年に芝川家本邸敷地の一部に建設された「芝川ビル」について、2005年からその歴史的、文化的価値を活かした再生活用に取り組む。
周辺の歴史的建造物などとも連携し、エリアの魅力発信にも尽力
「芝川又右衛門邸」が博物館明治村に移築
阪神淡路大震災で被災し、博物館明治村への移築が進められていた
西宮甲東園の芝川又右衛門邸(1911年竣工)が竣工。
ラバー・ダックを「水都大阪2009」で展示
オランダ人アーティスト フロレンティン・ホフマン氏の作品「ラバー・ダック」を「水都大阪2009」開催に合わせ大川(八軒家浜)に展示し、大きな話題となる
以後、大阪を中心に各地で展示が行われ、展示期間中に販売されるグッズも人気
平林貯木場水面(4号池東地区)の埋め立て工事に着手
かつて貯木場として賃貸していた民有水面を賃貸用地として有効活用するための埋め立て工事を実施(2015年完了)
続いて4号池西地区の埋め立ても行い(2015~2019年)、工業、物流系の事業用地として賃貸する。
「おおさか創造千島財団」設立
千島土地株式会社設立100周年記念事業として設立
大阪の創造環境の向上を目指し、主体的に芸術・文化活動の支援に取り組む
スタートアップ投資事業を開始
国内外のスタートアップ企業に対する出資を行う。
投資事業への関わり
戦前から芝川家は様々な新規事業の設立や支援に関わってきたが、中でも大日本果汁㈱(現・ニッカウヰスキー㈱)への出資は有名である。
ニッカ創業者・竹鶴政孝氏と個人的な付き合いがあった芝川又四郎は、友人の加賀正太郎氏を誘い大日本果汁㈱設立に出資。
経営が軌道に乗らず、資金の引き上げを主張する加賀氏を説得してニッカの国産ウイスキー製造を支えた。
海外不動産事業を開始
地域分散、通貨分散などリスクヘッジの観点から海外不動産投資事業への取り組みを開始