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初代・芝川又右衛門 ~唐物商としての出発~


1798(寛政10)年の「摂津名所図会」より伏見町唐高麗物屋(とうこまものや)の様子。
又右衛門の先代の芝川新助が、1800年代前半に伏見町4丁目に開業した唐物商の「百足屋」の様子はこのようなものだったのではないでしょうか。


又右衛門が入家する以前、1846(弘化3)年版の「大阪商工銘家集」より
「唐糸反物るい」、「唐小間物るい」を扱う伏見町百足屋新助の唐物店が取り扱った具体的な商品を知ることができます。

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初代・芝川又右衛門は、芝川家から請われての入婿だったため、芝川家で代々襲名されてきた「新助」の名は継がず、「又右衛門」の名を変えないという条件つきで芝川家に入家しました。又右衛門は、芝川新助から「我が家の娘婿に」と懇請された際、「他家に入家するほど資産の蓄えはないが、それでも良いのでしょうか」と念を押していましたが、自ら築いた資産金百両の持参金を養父・新助に預けて芝川家に入婿したと言います。金百両が現在のいくらに相当するのかはっきりしたことはわかりませんが、簡単に稼ぐことができる金額ではないでしょう。

さて、結婚後、又右衛門は伏見町心斎橋筋の古道具屋・加賀屋作左衛門の貸屋に新居を設けます。翌年の1852(嘉永5)年には分家して新たな一家を起こし、本家の唐反物類に差し支えないよう配慮しながら商売を始めます。本家からは資本金として30貫目が与えられました。

しかしながら、又右衛門は商売の伸びに限界があることを早くも悟ります。これでは発達の望みがないと思った又右衛門は江戸との取引に着手し、商圏の拡張に乗り出します。商売は順調に軌道に乗り、多くの利潤を生み出すようになりました。

ところが1855(安政2)年頃、商品を積んだ船が難破、百両あまりもの損失を招き、資本金を悉く失ってしまします。本家に相談したところ、「事情はわかるが、既に資本金を与えて分家したのだから、今後失敗の度に本家を当てにするようでは行く末が覚束ない。」*1)と非常に厳しいことを言われてしまいました。

しかし、ここでへこたれるような又右衛門ではありません。「苦言は本当に自分の病に効く良薬である。一時的な当て外れには決して屈することはない。」と発奮し、対策を練ります。

結局、又右衛門は以前より昵懇であった奈良の興福院(こんぶいん:奈良市法蓮町88)を頼り、その口添えで、興福院の檀家であった晒布屋・古川弥三郎が大阪内淡路町の薬種問屋・小西万兵衛に預けていた十貫目ばかりの薬種を借りて負債の支払いにあて、窮地を脱しました。
この時、又右衛門33歳。人生において最も苦しい試練の時だったと言います。

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さて、又右衛門と興福院の関係についてつけ加えておきましょう。

又右衛門の母・千代は、京都勧修寺家に縁がある関係で伏見宮家に出入りし、姫の遊戯の相手に召されることもありました。又右衛門も幼い頃より母に連れられて度々伏見宮家を訪れていたことから、伏見宮家の姫が興福院の院主となられた際、又右衛門を贔屓にして下さったようです。又右衛門は、鹿背山焼の奈良方面の販路開拓の際にも興福院の幇助を得ていました。

後年、興福院で寺札の取りつけ騒ぎ*2)が起こった際には、又右衛門はお金を持って駆けつけて騒ぎを収め、長年の恩に報いました。また、1885(明治18)年には多宝塔を寄進、仏殿大修繕、永代祠堂にも浄財を喜捨しています。

*1)又右衛門のひ孫にあたる芝川又次が伝え聞いたところによると、妻子の生活の面倒だけは見るから、もう一度一から出直すように言われたとのこと。

*2)寺札は、寺院がものを購入する際に発行し、年末に檀家からの献納金で決済する約束手形の一種。明治維新の動乱と、続く廃仏希釈の嵐の中で寺院への納金が激減し、危機を感じた人々が寺札を持って寺院に取り付けに押しかけた騒動。

■参考資料
「大阪商工銘家集」(「大阪経済史料集成 第十一巻」、大阪経済史料集成刊行委員会、1977)
「摂津名所図会」(「大日本名所図会 第1輯第5編 摂津名所図会 上巻」、原田幹校訂、大日本名所図会刊行会、1919)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝川又平自叙伝 現代語訳『瑞芝録』」、芝川又次(非売品)

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