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興福院(こんぶいん)と芝川家

芝川家と縁が深く、これまで本ブログ内でもいくつかのエピソードをご紹介してきた奈良の興福院(こんぶいん)のご住職・日野西徳明院主さまにお目にかかり、お話を伺うことができました。先にご紹介した芝川家の記録と少し異なる部分もありますが、今回は伺ったお話を中心に、芝川家の資料も参照しながらお話を進めたいと思います。

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さて、興福院と芝川家とのご縁は、初代・芝川又右衛門と乳兄弟の間柄であった京都の華族・飛鳥井家のご息女が後に興福院のご住職(飛鳥井清海院主さま)となられたことに始まります。このようなご縁から、又右衛門は飛鳥井院主さまより目をかけていただいていました。

又右衛門が芝川家に入婿する以前に取り組んでいた鹿背山焼(陶業)の奈良での販路開拓の際には興福院の手助けをいただき、貿易事業において積荷が難破した際にも興福院の口添えで融資を受け、再起することが可能になりました。また、幕末、又右衛門が事業(唐物商)のトラブルから苦境に陥った際には、事態が落ち着くまでの間、三ヶ月ほど興福院に匿ってもらったこともあったそうです。
この様に、又右衛門は興福院より、折に触れて大小の援助を受けていました。


興福院に伝わる江戸末期の鹿背山焼。
又右衛門との関係から入手されたものなのでしょうか。

又右衛門は、後に大阪を代表する富豪に成長していきますが、草創期に無償の援助を惜しまなかった興福院に多大な恩義を感じていたことでしょう。

明治2年頃、周辺の村人が興福院に預けたお金の返金を求めて、奈良県知事の制止も届かず「返金してくれなければ興福院を潰す!」との大騒動が起きた際には、又右衛門は知らせを聞くや否や馬の背に千両箱を二箱積み、くらがり峠を越えて興福院に駆けつけ、騒ぎを鎮静しました。また、上知令により興福院の存続が危機に瀕した際にも地所を寄付しています。

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こういった芝川家からの力添えに対し、興福院からは、院内に一碑を建立して芝川家先祖累代の冥福を祈りたいとの申し出がありました。これを受けて、明治18年6月18日、又右衛門はちょうど購入していた古代木製多宝塔を寄付します。この多宝塔の内部には芝川家祖先の真影が納められ、現在も、大切に本堂に安置されています。


芝川家寄付の多宝塔。
重要文化財であるご本尊の阿弥陀三尊像の脇に安置されています。

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また、西宮市甲東園の2代目・芝川又右衛門邸内八角堂(寿宝堂:武田五一設計)に安置されていた観音像と厨子(春日厨子)も、八角堂が龍興寺(名古屋市)に移築される際に興福院に寄贈されています。


旧芝川又右衛門邸内八角堂の観音像

「芝蘭遺芳」にはこの観音像について「藤原全盛期の作にして、興福寺千体物の一体にして同時代優秀なる作と称され国宝にも擬せられ得るものにして・・・」とあり、大変に由緒のある像であることが伺えます。前出の多宝塔にしろ、この観音像にしろ、恐らく明治時代の廃仏毀釈で売りに出されていたものを芝川家が入手したのではないかとのことでした。

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興福院の存在がなければ、そして芝川家の存在がなければ、お互いの危機を乗り越えることができず、それぞれの“今”は存在しなかったかも知れない・・・そう思うと、感慨を禁じ得ません。互いに受けた恩に対する深い感謝を持ち続けたからこそ、興福院と芝川家の間にはこの様な素晴らしいご縁が結ばれたのでしょう。

■参考
007.初代・芝川又右衛門 ~芝川家入家まで その3~
010.初代・芝川又右衛門 ~唐物商としての出発~

■参考資料
「瑞芝録」、芝川又平口述、木崎好尚編(非売品)
「芝蘭遺芳」、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)

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