現在、芝川ビルが建つ地に芝川家が本邸を構え、事業の拠点とするようになったのは嘉永5(1852)年のこと。当時の様子は知る由もありませんが、「芝蘭遺芳」には「旧幕時代明治23年迄の伏見町芝川本邸」という写真が掲載されており、明治23(1890)年に大規模な建て替えが行われるまでの芝川本邸は、恐らく明治以前の面影を残していたと思われます。
(千島土地株式会社所蔵資料 F02_006)
こちらは明治23(1890)年の建て替え工事に際して、工事着手前の様子を日本画家・深田直城が描いたものです。
子供時代をこの家で過ごした芝川又四郎(明治16(1883)年生まれ)は、次のように回想しています。
「伏見町の家は大阪特有の格子づくりで、京都風の紅がらを塗ってありました。格子のうちは紙障子でした。私の家も半分は、格子づくりで、あとの東半分はへいになっていました。へいも東京や京都とは、またちょっと違います。下半分に舟板を張り、上は壁塗りでかわらが乗せてあります。そのへいのうちらに、つるバラを植え、伸びたバラがへいの上を越えて実にきれいな花が咲きました。」
このお屋敷、内部は一体どのようなものだったのでしょうか。
この平面図は、いつ、どのような経緯で描かれたものかわかりませんが、「伏見町本家■■」と題した図面の右下には「伏見町四丁目通り」*)の文字が見られ、また、土蔵の位置が上記の絵画と大体一致することからも、恐らく、この時期の芝川邸の図面であると思われます。
図面左下の「入口」の右脇に「店 八帖」と見られますが、こちらは又四郎の父・二代目又右衛門が明治23(1890)年に洋館が建設されるまで雑貨の商売をしていたというお店のことでしょうか。
当時、芝川家の人々は伏見町に住まい、伏見町を事業拠点とする職住一致の生活を送っていました。しかし、初代又右衛門(又平)は須磨、二代目又右衛門は西宮甲東園でそれぞれ晩年を過ごし、又四郎も独立後は帝塚山や阪神間に居を構え、伏見町は芝川家の生活の舞台から遠ざかります。
昭和に入ると芝川ビルが建設されるなど、オフィスとしての色合いは益々濃くなり、今や幕末から明治期にかけての面影を偲ぶよすがはありませんが、こうした史料は当時の暮らしの片鱗を私達に垣間見せてくれます。
*)現在、芝川ビルの住所は「伏見町三丁目」だが、平成元(1989)年までは「伏見町四丁目」であった。
■参考
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」
大阪伏見町 芝川家「旧洋館」Ⅱ
■参考資料
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969
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