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村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易

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村山龍平と芝川家

江戸時代、徳川政権は豊臣秀吉の朝鮮出兵のために断絶した李氏朝鮮との国交を回復し、対馬の宗氏を通じて貿易が行われていましたが、19世紀に入ると、日朝双方の財政難などの理由から幕府と朝鮮通信使の往来は途絶えました。その後、日本では幕府に代わり明治新政権が樹立。明治政府は朝鮮に国交の回復を提案するも容れられませんでしたが、明治8年に江華島事件が起こり、翌9年に日朝修好条規が締結されて釜山、元山、仁川の開港が決まると、にわかに朝鮮貿易への関心が高まります。

こうした社会情勢を見て、朝鮮貿易は将来性が見込めるとの意見が一致した二代目芝川又右衛門、村山龍平、下河辺貫四郎*)の3人は事業を進めるべく共に準備に着手します。

芝川、村山、下河辺は当時25~30歳。意欲に満ちた若手実業家達は、朝鮮貿易に留まらず、先ず釜山に進出した後、元山、ウラジオストクを経て沿海州(ロシア帝国がおいた州)にまで商圏を広げる壮大な計画を立てました。

明治13年3月28日、村山と下河辺は現地調査のため見本品*2)を携え、神戸港を釜山に向け出発します。下関、長崎、五島福江、対馬厳原を経て、4月5日に釜山港に到着。早速、大池忠助*3)や住友支店、協同商会*4)を訪ねて現地の商況を調べますが、期待に反し景気はあまり良くなかったようです。

村山、下河辺は市場調査を行い、手紙で詳細を在阪の芝川に報告。芝川も最寄りの商店に聞き合わせて朝鮮への輸出入品の価格調査を行い、釜山と大阪で情報を密にやり取りしますが、現地の事情が明らかになるほど、先行きは厳しいものでした。

持参した品はなかなか売れませんでしたが、一方で、現地の農産物や水産物は大阪でよく売れたといいます。相当の利益が出る見込みが立ったため、村山、下河辺は一旦帰国して今後の対策を練ることになりました。

そして5月16日に村山、下河辺が無事神戸に到着。次回の渡航に向けて協議を重ねる最中、明治12年1月に創刊した朝日新聞が経営難に陥り、社主であった村山は、朝鮮への渡航か、新聞経営に専心するかの選択を迫られることになります。

熟慮の末、村山は新聞経営への専念を決断し、朝鮮貿易は一旦中止することとなりました。

その後の詳細は不明ですが、芝川、下河辺共に別の事業も抱える中、村山を欠いて朝鮮貿易を進めることは難しかったのでしょう。
明治13年9月の朝鮮の大池忠助との取り引きを最後に、芝川、村山、下河辺で損益を三分し、朝鮮貿易は企画のみで終了しました。

*)下河辺貫四郎:詳しい経歴は不明だが、芝川家の記録によると、芝川家の別家(暖簾分けをした商人)で、朝鮮貿易に取り組んだ際は独立して間もない頃だったという。明治22年、藤田組が児島湾干拓事業に際して岡山出張所を設置した際、同名の人物が所長に就任、明治27年に病死とあるが、関係は不明である。

*2)記録によると、持参した見本品は以下の通り。菰巻酒 25挺、布包洋糸 2個、布包金巾 2個、洋函入寒冷紗 2個、菰包緞通 2個、洋函入雑品 2個、白木函 2個、小桶漬物入 5個。雑品の詳細は不明だが、売れ残り品の目録から、灸籠、二ツ入子菓子容器、吸物椀、横長盆、菓子鉢、丸盆、銘々盆、五ツ入子盆、清長(?)、木鋏、茶出(?)、矢立、花瓶、徳利、小皿、茶碗、下等木地椀、湯呑、丼、手塩皿、一閑張文庫、駿河半紙、鼠青半紙、大半紙、因州美濃、海黄などと推測できる。

*3)大池忠助(1856-1930):対馬出身。明治8年に釜山に渡った朝鮮貿易の先駆者。海運・製塩・水産・旅館業など様々な事業を興し、「釜山の三富豪」の一人と言われた。

*4)協同商店:大阪協同商会か。藤田伝三郎や中野悟一らにより設立された貿易商社。

■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要二 堂島米商会所、朝鮮貿易』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
佐藤英達『藤田組の発展 その虚実』、三恵社、2008
『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004

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