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村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)

■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店

大阪で硝子商を営んでいた平栗種吉は、当時輸入品であったランプのバーナーを国産化しようと思い立ち、1880(明治13)年、岡本清忠、阿部平兵衛の3人で「赤心社」を設立。平栗宅でバーナーの製造を開始しましたがたちまち資金的に行き詰まり、旧知の間柄である村山龍平に援助を求めます。

村山から赤心社への資金援助の相談を受けた芝川又平、又右衛門父子は、その事業が有望であると判断して出資を決意し、平栗、村山と共同で事業に取り組むことにしました。


バーナー製造のための仮約定書(千島土地株式会社所蔵資料B01_193_001)

赤心社は1880(明治13)年、大阪市北区中之島のかつて日出(ひじ)藩の蔵屋敷だった建物*)を借り受けて工場を移転。翌1881(明治14)年には、村山龍平、平栗種吉、芝川又平の姓名の中から「平」の1字をとって工場名を「三平舎」と改称し、同年9月には、西成郡曽根崎村(現・大阪市北区)の芝川家所有地に工場を新築・移転しました。

三平舎の製品は、当初こそ外国製品と比べて技術が未熟で、製造コストも割高だったことから経営は困難を極めたものの、新しい機械の導入や職人の技術の熟達によって製品の原価引き下げに努めた結果*2)、数年後には低価格で販売できるようになり、輸入品を駆逐するまでになりました。*3)

三平舎は、大阪・東京をはじめとする国内各地はもとより、中国最後の統一王朝である清国にも販路を拡大し、着実に成長を遂げていきます。1889(明治22)年には清国向けに黄銅製ボタンの製造・販売も手がけるようになったほか、従来の匿名組合から資本金5万円の「有限責任三平社」に組織を改め*4)、さらに1897(明治30)年には、資本金を15万円に増資して「三平株式会社」(以降、三平社)となりました。


三平株式会社ガスバーナーラベル(同)

以後も三平社は、火災による工場消失といった苦難を経ながらも業績を伸ばし、紡績会社を除けば大阪府下で最大の職工を抱えたといいます。1903(明治36)年には成績優秀な模範工場であるとして、宮内省から廣幡忠朝侍従の工場視察を受けました。


侍従視察の際に作成、献上された「三平社事業概要」の写し(同B01_194_002)

1912(明治45)年、三平社は資本金を50万円に増資して同業者を買収・合併します。ここにおいて、村山氏と芝川又右衛門は相談役に退き、事実上、会社の経営からは手を引くことになりました。*5)

その後も三平社は増資を重ね、1917(大正6)年には、ついに資本金を100万円として事業のさらなる拡大を図ります。しかし、ランプのバーナーは徐々に時代遅れの製品となり、需要が減少していきます。電球や自転車バルブの製造にも着手し、それなりの業績を上げますが、景気の低迷もあって経営の好転を果たすことはできませんでした。1929(昭和4)年には電球部を売却して社名を三平金属工業株式会社に変更しますが、翌年、ついに廃業することになりました。


三平株式会社営業報告書(同B01_229_041ほか)

*)中之島4丁目5番地(現在の関西電力株式会社本店ビルの南側付近)の蔵屋敷を高瀬田鶴から借り受けたとある。

*2)明治20年に三平社の製造能力は創業時の25倍以上になっていたという。

*3)創業当時、バーナー1ダースの輸入価格が1円10銭余りであったのに対し、三平舎の製造原価は1円20銭だった。努力の末、これを30銭の低価格で販売するまでになるが、その後の同業者との競争の激化で18銭にまで値下げせざるを得なくなったという。明治20年には同業3社と共同販売店を設立し、値崩れ防止に努めた。

*4)三平舎は設立後しばらく決算を行わなかったが、従来の匿名組合の組織変更を検討するにあたり、明治22年にこれまでの総決算を実施し、その際の5万円の利益を資本金として有限責任三平社が設立された。

*5)1922(大正11)年に村山、芝川は相談役を辞任した。 

■参考資料
『村山龍平伝』朝日新聞大阪本社社史編修室、1953
『投資事業顛末概要八 三平株式会社』津枝謹爾編纂、昭和8
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)

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