■参考
村山龍平と芝川家
村山龍平と芝川家2 朝鮮貿易
村山龍平と芝川家3 大阪共立商店
村山龍平と芝川家4 三平舎(三平株式会社)
二代目芝川又右衛門は、堅実な貯蓄法として植林事業に着目していましたが、植林は門外漢が簡単に取り組めるような事業ではないため、折々に山林経営者から話を聞いたり各地の山林を視察したりといった準備を進めながら機会を待っていました。
売込十来ノ他人山林図(千島土地株式会社所蔵資料G00331)
他所より売り込まれたと思われる山林に関する資料。和歌山や奈良吉野のものが多く見られる。
1895(明治28)年頃のこと、懇意にしていた村山龍平を介して奈良県出身の代議士・植田理太郎から山林の買収話が持ち込まれます。山林は、和歌山県日高郡龍神村(現・田辺市)および寒川村(現・日高川町)の両村にまたがる、総面積が1,135町歩(11,236,500㎡)にも及ぶものでした。
この頃には既に山を見る目が養われていた二代目又右衛門は、そばに日高川が流れており、伐採した木材をいかだにして下流まで運び出せることに着目し、買収の話に応じます。
日高郡龍神村山林買得及び一件書類より小川山図面(同G00327)
1896(明治29)年、植林を行って計画的に伐採した木材を売却することで、長期的に利益を得ることを目的とする「大阪殖林合資会社」を設立。村山、植田に大阪の実業家である外山脩造を加えた4名による組合形式で経営することとしました。
大阪殖林合資会社契約証書(同G00332)
出資者に名前のある外山秋作は外山脩造の長男。『芝蘭遺芳』によると、外山秋作は会社設立後、田辺と南部(みなべ)の間の小部落に移住して明治38年まで事業を監督した。
1907(明治40)年には、専門家による事業調査書と意見書に基づいて原生林の伐木事業を開始することを決定し、翌1908(明治41)年に道路の掘削や作業小屋の建設などの準備工作を進めたうえで、木材の伐採に着手しました。伐採された木材は、質の良さと独自に改良した伐木法が材木商の間で好評を博し、高い値段で取引されたと言います。
渡辺貞臣「小川山伐木事業調査書」(上・同G00340)と滋賀泰山林学博士による「森林施業意見書」(下・同 G00329)
渡辺貞臣は明治45年から大阪殖林合資会社の理事となり、御坊に移住したということ以外詳細不明。
滋賀泰山は1854(安政元)年に愛媛に生まれ、東京開成学校で鉱山学を履修した後、ドイツに留学して林学を学んだ。
小川山林産標本(同G00723)
一方、植林事業は1912(大正元)年度から毎年26町5反(262,350㎡)ずつ進められました。その後は年を追うごとに山林の手入れと植林、伐木で多忙を極めるようになり、1919(大正8)年には一部の木を立木のまま売却することもあったといいます。
その後も事業は順調に推移し、1920(大正9)年には増資も行いましたが、村山が死去した翌年の1934(昭和9)年に、二代目又右衛門は大阪殖林の事業から撤退しました。
大阪殖林は、1975(昭和50)年に住友林業株式会社に株式が譲渡された後、1987(昭和62)年には吸収合併されました。
■参考資料
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
飯塚寛「松野礀と滋賀泰山」、『森林計画学会誌32』、1999
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