芝川又右衛門が別邸を構えた当時の甲東園へのアクセスの悪さについては「甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設」でも触れました。
しかし、1920(大正9)年に阪神急行電鉄神戸本線(現・阪急電鉄神戸線)に引き続き、翌1921年には西宝線(現・阪急電鉄今津線)が開通。1922年に「甲東園前停車場」(現・甲東園駅)が設置されます。
この「甲東園前停車場」は、芝川家が阪急電鉄に要望して作られた、いわゆる「請願駅」でした。
当初、芝川家は鉄道敷地として2,500坪の寄付を申し出ますが、その程度で駅は作れないと断られたといいます。そして折衝の結果、駅付近に4倍の1万坪(実測)の土地と現金5,000円を寄付し、停車場を設置する協定が結ばれました。
西宝線上停留場設置に関する協定書(千島土地所蔵資料G00985_7)
阪急寄付地実測計算図(千島土地所蔵資料K03_035_002)
小林一三氏からの礼状(千島土地所蔵資料G00992_020)
ここでは「御所有地1万千9百坪御寄付■下千万難有奉…」と11,900坪の所有地寄付に対する御礼が述べられています。
芝川家が経営する果樹園「甲東園」前の駅ということでしょう、開設当時の駅名は「甲東園前」でしたが、
その後、大正末~昭和初頃に「甲東園」に変更されました(*)。
開設して間もない頃の甲東園前停車場(千島土地所蔵資料P38_030)
当初は駅の乗降者数も非常に少なく、ホームで手を上げないと電車が走り過ぎてしまったり、降りる際も予め伝えておく必要があったのだとか。
なお芝川家より寄付された土地は、阪神急行電鉄によって宅地開発、分譲されました。
沿線開拓地略図(京阪神急行電鉄株式会社『京阪神急行電鉄五十年史』1959年、p.116-117)
「甲東園住宅地10,000坪」が芝川家からの寄付地と思われます。
「甲東園住宅地」は1923(大正12)年3月より48戸が売り出されました。売価は坪あたり12~30円、土地114坪、建物25坪75の土地付住宅の価格は7,359円38銭と記録されています。
昭和15年「甲東村土地宝典」(千島土地所蔵資料K03_13)
甲東園から仁川に向かう西宝線東側に「甲東園住宅地」の記載が見られます。
阪急電鉄経営地(千島土地所蔵資料K03_035_001)
先ほどの阪急寄付地実測計算図にほぼ一致しています。
こちらを現在の地図で「甲東園住宅地」の辺りに重ねてみると…
ぴったりと重なることから、芝川家からの寄付地はこの場所(現在の甲東園1-2丁目の一部)であったとみて間違いなさそうです。
*)1924(大正13)年の『阪急沿線案内』(阪神急行電鉄㈱発行)では「甲東園前」、1932(昭和5)年の『阪神急行電鉄二十五年史』では「甲東園」となっていることから、恐らくこの間に駅名の変更が行われたものと思われます。
■参考資料
阪神急行電鉄株式会社編『阪神急行電鉄二十五年史』阪神急行電鉄/1932
京阪神急行電鉄株式会社編纂『京阪神急行電鉄五十年史』京阪神急行電鉄/1959
阪神急行電鉄株式会社『阪急沿線案内』阪神急行電鉄/1924
甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
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